日本语の性格
话し手侧の视点から见る
「あ、もう时间だ!」をどう说明する?
日常何気なく使っている言叶というものを文法规则で解釈しようとすると、なかなか思うようにいかない。例えば、朝出かけようとして、时计を见て「あ、もう时间だ!」と叫ぶことがある。この「もう时间だ!」は文の构成から见て、どのように说明したらよいのだろうか。
主语ごは何か?「あ、もう(今は)时间だ!」と解釈したら、「今」が「时间」ということになって意味をなさない。かといって「何は……」に当たる言叶をあれこれと考えても、ぴったり当てはまる适当な言叶が见当たらない。
ここでいう「时间」は、「时间と空间」とか「时间が経つ」という抽象的な「时の流れ」を言うのではなく、あくまで当人にとっての「出発の时刻」を意味しているに过ぎない。これは、司会者が讲师に「先生、お时间です」と告げて、讲师が话の终わりに「ちょうど时间になりました」と述べる、あの「时间」の使い方と同じで、具体的な话の场面の中で、话し手にとって特别の意味を持った「时点」を指示する働きである。
面白いことに、これらの文が、いずれも特定の主语を想定することの难しい「无主语文」であることだ。これは话し手がその时、心に感じた、ただそれだけの事柄として、「あ、时间だ」と端的に述べた文だからである。
そのために、使用语汇も谈话の场面と连动して、はなはだ具体的で个别的な意味となり、决して辞书にあるような抽象的概念の意味ではない。私たちが使う日本语、特に话し言叶には、その折々に心に感じ、目に映った事柄を「外の世界に対する私侧の视点」で表す言い方が极めて多い。
「键が挂かっている!」「雨が降ったら凉しくなった。」「合格できてうれしい!」と、临场感に溢れる表现が出来るのも、具体的な事象として解说する态度ではなく、その事象から受ける自己侧の主観として把握する表现姿势ゆえである。「键が挂かっている」という现象文による表现、「凉しくなった」と自己侧の确认的态度を表す「た」の使用、「うれしい」と感情形容词を用いて素直に自己の心を表明し、决して「合格を喜ぶ」というような动词による第三者侧の状态として事を解说的に示す态度はとらない。
以上の例からも分かるように、日本语は、话し手が自己を取り巻く周囲の対象や场面に対峙して、そこから受ける状况として文を作り、言叶の意义を定めていく性格が极めて强い。外の世界を受け止める「话し手侧の视点」を中心とした発想と言い换えてもよい。
従って、日本语の表现や文法・语汇・意味の特徴を考える时には、この点を心に入れて観察していく必要があるし、文法は文法、意味は意味として切り离して考えず、表现も文法も语汇も意味も、互いに関系し合う「同じ干から生まれた枝」として一绪に眺めていく态度に彻することが肝要なのである。
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