私と信二郎は夜风のふき通しの渡り廊下を走るようにして戻って来ました。母はうすぐらいところで东京の叔母のところへ手纸をかいておりました。肩越しにのぞくと、私の结婚の依頼がながながとかかれてありました。私は苦笑しながら自分の部屋にはいり、ふと结婚についてかんがえだしました。二十五だという年齢がまっさきに头に浮びます。婚期とは几つにはじまって几つに终るのか、ともかく私はもう若くもないと思っておりました。今迄、何をしていたのでしょう。同级の人达は随分お嫁に行ってます。子供までいる人も少なくありません。未だ一人でいる人は一人なりに学校の先生をするなり、会社で秘书をするなり、それぞれはっきりとした生き方をしております。私だけがあぶはちとらずな、どうにも动きようのない恰好でいるじゃありませんか。私は「女性失格」だろうと自分でそう思います。今迄、縁谈は数える程しかありませんでした。みんなことわられてしまっておりました。一番最初の縁谈の时、私はまだ廿歳前で元気一杯でおりました。相手の方は外交官の令息で立派な青年绅士でした。どこも欠点のないような方でしたけれど、それが如何にも社交なれた赤裸々でない感じがし私は好きになれませんでした。派手な社交は私の性に合いません。お部屋の熊の毛皮の上にたって大势の御知合に绍介された时、どぎまぎして梦中でハンカチをにぎりしめておりました。そんな私ですから、当然のようにおことわりがまいりました。父母は大変落胆しましたが私はほっとしたのでした。とにかく、强がりな我むしゃらな私ですけれど反面、意気地のない、気弱なところもあります。それが今日までどっちつかずのままいさせたのかも知れません。今更、结婚ということを重大视も致しませんし、どんな人でもいいと思っているのです。いずれはこの家を出てゆかねばなりません。私は生家への爱情など微尘も持っておりませんし、一生独身で通そうとも思っておりません。水の流れにぽんと体をおいて、何処まででも行って顶戴、行きつくところで私は落着きます、と云った気持でこの顷はおりますものの、肝心の縁谈もなく、ますます若さがすりへってゆくようなさみしさと、それに対するあせりを感じないでもありません。
「母様、贵族や华族の部类はやめておいた方がいいわよ」
他所事のようにそう云って私はひとりでクックッ笑ってしまいました。
「それよりお金のある方がいいんでしょう」
母は軽くそう云いました。
寐床にはいってから明日の予定をたてました。お天気がよかったら京都へあそびに行こうと决心しました。红叶が丁度よい顷です。ぶらぶら人の行かないような道を选んで歩くのが私は好きでした。二三日前に、ピアノの売买を世话してわずかな谢礼金がはいりましたから、それで一日のんびりして来ようと、ほくほくしながら眠りについたのでした。
ところが翌日の朝。
父が今日は少し加减がいいから、私にしらべ物をしてくれと、そのリストをこしらえはじめました。売る物のリストです。出足をくらって少し不机嫌な私は父の机のそばにむっつり坐りました。十五六ばかりの品物が记されました。砚石や香合。白磁の壶、挂轴や色纸。セーブルのコーヒセット、るり色の派手なもので私の嫁入道具にすると云って一组だけ今まで売らずにいたのでした。それから银器が五六点。
「雪子、これ土蔵から出しておいてくれ。それから东さんを呼んで来てね。だいたい値をかいておいたけれど、よくもう一度相谈してみてくれ。银は东さんでない方がいいだろう。贵金属屋の方が……」
「では今日中に」
我也会用翻译器 真谢谢你了