2.日本の书の歴史
日本の书と中国の书の违いに主に注目しながら日本の书の歴史を辿り、その违いを明らかにすることで自分が中国の书を见て抱いた违和感の要因を探ろうとする。
2.1书の生まれ
それまで文字を持たなかった日本は大陆との交流で初めて文字を认识した。中国の秦の时代(8年~23年)に王莽が発行した货币「货泉」が弥生时代后期の遗迹から発掘されている。つまり、かなり早い段阶で日本は汉字と接触していたと考えられる。有名なものでは、福冈市の志贺岛から江戸时代に出土した「金印」があるが、それも后汉という古い时代を物语っている。汉字を取り入れて以后は、帰化人の助けを借りながら、汉籍を书写□学习し、汉字を使いこなしていった。推定5世纪后半のものとされる熊本県□江田船山古坟から出土した大刀の铭文は日本で作られた最古の文字遗品の一つであり、そこには隷书风の文字で日本の天皇の名前が书かれている。このことから、この时代から书の歴史が开始したと考えられる。
2.2书の形成期
7世纪から9世纪にかけて、日本は、遣唐使、留学生、僧によって中国の有益な知识と先进技术を受容した。その结果中国モデルの中央集権の律令国家が诞生した。同时に仏像の铭文や墓志などに见られる六朝书风からも分かるように中国书法を手本とするようになる。最古の写経の记录は『日本书纪』の天武天皇2年(673年)であり、これ以降中国书法を采り入れながら、多くの写経が书かれた。写経の営みを通じて古代の人々が汉字や中国书法を吸収していった。これが日本の书の基础となる。
2.3书の成长期
平安时代初期、唐文化を爱好した嵯峨天皇(687年~842年)の影响もあり、宫廷贵族などの知识阶级で、中国の文学や歴史を学び、汉诗や汉文を鉴赏し、それらを作成することが流行となった。さらに汉诗や汉文を音読から训読に直して読むことで、一层汉字が普及し、やがて三笔のような书家が现れる。三笔は空海(774年~835年)、嵯峨天皇、橘逸势(?~842年)の3人である。空海は、入唐し、真言宗を学んだ。唐から帰国した际、多数の経典を持ち帰った。彼の书は、行书を交えながら草书で执笔した。王羲之书法を范とし、颜真卿の书法の影响も见られる。嵯峨天皇の书は、空海の装饰的な书法、さらに欧阳询の结构や笔法などの影响が见られる。橘逸势の书は、评価が高く、中国でも「橘秀才」と呼ばれ、留学生の间でも唐文化修得の勉学に励んでいたことが知られている。前の二人を含め、三笔は中国书法を基盘としながらも自らの书风を展开した。