1.确かにアメリカのパーティ―では、谁でも次々に目新しい话题を持ちだし、人々を引き付けようと努力します。そうすることこそが、有能な人物である证拠ともなるし、社会的な评価もそこで决まってしまうかにみえます。そんな场で、たとえ初対面の相手であったも、天気のような无难な话题から切り出すようでは、その曲の无さに、たちまち饱きられ、逃げ出されてしまうでしょう。自分を相手に印象づけることが、これでは完全に失败です。(百字以内)
2.ミルは说く。もしも百人のうちの九十九人までが同一の意见であり、残る一人が反対の意见であったとしても、その一人の発言を封じることは许されない。逆に、その一人が権力を持っている场合、その権力を振るってほかの九十九人の意见を封じることが许されないのと同様に。なぜならば、もし封じられた意见が正しいならば、人々は误りを订正する机会を失うことになる。反対に、もし、沈黙させられた意见が正しくない场合には、真実と误りを戦わせることによって、真実を一层しっかりと把握し、その真実さを生き生きと确信する机会を逃がすことになる。そうして、第二の损失は、第一に比较してほとんど劣らないほど重大なのである。(二十五字以内)
3.それ以外に言いようが无い。まず大上段にふりかぶっていえば、もっとも発达した资本主义国のアメリカ、われわれの存亡が直にそこに结びついている世界のニ大强国の一つ、よかれあしかれ、われわれの文明が到达した、もしくは行き诘まったその极限の形、いったいその社会がガタピシいっているとしたら、どの程度にガタピシなのか、确固としているなら、どのぐらいに、お家安泰なのであるか、それを一度しかとこの眼でたしかめてみたかった、とまあそんなふうに言えるであろう。(六十字以内で)
4.旅という物は、どちらかというと、眼で见る魅力、未知の世界への憧れと考えられがちである。しかし、旅は五感を持つ人间が行う行为だと考えれば、视覚に诉える行为だけをとりあげるべきではない。五感が作用する物を単纯に考えてみても、风景を见る、方言を闻く、风土の香りをかぐ、郷土食を味わう、地方民の肌に触れる、そういう様様な魅力がある。一口に言って、これらは発见の喜びである。日常生活では味わえない物である。発见の旅というと、人生における意识上の発见をも含めるべきである。つまり、旅に出ることによって、「自分」を発见するのである。土地や风物ではない。自分を発见するとは、自分を反省することも含めている。未知の人と接することによって、自分を知るということも含んでいる。目には见えない発见である。発见とは「自己発见」といい换えてもよい。(五十字以内で)